『であること』
と
『ではないこと』
ある朝、電車でみのもんた似の60歳くらいの男性が座って寝ていたが
その男性は
寝ていても二重がハッキリしていて
色も浅黒く
体つきもむきっとしていて
こんな60代ならありだなーとか何とか考えているうちに
妄想が止まらなく
明大前で一度電車を降りた事がある。
おじさんが魅力的『である』事についてのファンタジーですが
最近は
『ではない』ファンタジー が多いと思う。
自分『ではない』とか
痛く『ない』とか
悪い事はして『ない』とか。
お酒には依存して『ない』とか。
否定され続けている内に
目を開けながらも別次元を見れる様になるんだと思う。
かく言う私も
人に堂々と嘘をつくときは
その人の顔をしっかり見つめ
目の玉を真ん中に据え
呼吸を整え
声色を安定させ
ファンタジーを見つめる。
私は悪く『ない』。
でもそんなん続けてると
私が悪いのか、悪くないのか
あなたが悪いのか、悪くないのか
悪い事が悪いのか
悪い事が悪くないのが
わらいが悪いのか
悪いが笑いなのか
自分は自分なのか
自分は誰なのか
分からなくなると思う。
物事はおおよそ相対的であるから
数少ない事しか絶対的は有り得ないのだが
ファンタジーを見続けて
その悪い方の絶対に足を踏み入れないようにしなければならない。